歴史JAPAN Kunibo

歴史JAPAN Kunibo

「豊臣兄弟」に学ぶ日本史 風雲!竹田城 天空の城として人気がある雲海の城跡 400年近い歴史の石垣 がなぜ現存しているのかを解明 History of JAPAN

Video Type
一般
Published at
2026年5月31日 20:00
Views
1万373回
Likes
84
コメント数
-
エンゲージメント率
0.8%
データ確認日時
2026年6月7日 07:15

動画概要

兵庫県朝来市の山頂にそびえる竹田城は、深い霧に包まれて雲海に浮かび上がる姿から「天空の城」、あるいは虎が地に伏せた姿に似ることから「虎臥城(こがじょう)」の名で広く知られている 。1943年に国の史跡に指定されたこの城は、戦国時代の激動と城郭技術の変遷を今に伝える貴重な遺構である 。

竹田城の歴史は、室町中期の15世紀半ばに遡る。播磨や丹波からの侵入を防ぐため、但馬守護・山名持豊(宗全)の命によって最前線基地として築かれた 。初代城主には守護代の太田垣光景が据えられ、以後、名門太田垣氏が7代にわたりこの要害を支配した 。当時の城は、石垣ではなく土塁や空堀で守られた「土の城」であった 。

この城が歴史の表舞台に大きく躍り出たのが、天正5年(1577年)11月である 。織田信長から中国攻めを命じられた羽柴秀吉の弟・秀長(小一郎)が、初の総大将として但馬平定に乗り出したのだ 。秀長の狙いは、富を生み出す生野銀山の確保と、毛利方の太田垣輝延が守る竹田城の攻略であった 。
秀長はまず、背後からの挟み撃ちを防ぐため、前衛の支城・岩洲城を急襲してわずか1日で落とした 。その勢いのまま本城の竹田城へ殺到 。険しい山頂から岩石を落として抵抗する太田垣軍に対し、秀長は「鉄砲三百挺」による圧倒的な集中火力を浴びせ、わずか3日の激闘で降伏・開城させた 。この「竹田城の戦い」は、温和な実務派だった秀長が、生涯勝率9割超を誇る名将へと覚醒した記念すべき初陣となった 。秀長は一時的に城を離れた隙に再侵入を許すものの、天正8年(1580年)に大軍で再び攻略し、太田垣氏の支配を完全に終わらせた 。

天正13年(1585年)、最後の城主となる赤松広秀が入城した 。広秀は中世の山城を、名工「穴太(あのう)衆」の技術を用いた野面積みの「総石垣造り」へと大改修した 。これこそが、現在私たちを魅了する美しい石垣群の正体である 。
しかし慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて東軍に属した広秀は、鳥取城攻めでの焦土作戦を徳川家康に咎められ、切腹を命じられた 。城主を失った竹田城は即座に廃城となり、建物はすべて取り壊され、山頂に石垣だけが取り残される「天空の廃墟」となった 。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』で再び脚光を浴びる竹田城 。そこには、若き秀長が天下への足がかりを築いた熱い戦いと、戦国の世に翻弄された武将たちの哀愁が今も息づいている が・・

作曲 秋山裕和
http://www.hmix.net/

#nhk大河ドラマ #豊臣兄弟 #竹田城
「豊臣兄弟」に学ぶ日本史 風雲!竹田城 天空の城として人気がある雲海の城跡 400年近い歴史の石垣 がなぜ現存しているのかを解明 History of JAPAN